フリーライティングからフローライティングへ
フリーライティングを行う上で陥りやすい落とし穴は、ついつい焦って書き続けるため、支離滅裂な文章がどんどん作成されてしまい、嫌気がさしてしまうということです。それを避けるためには、やはり、「フリーライティングをする上での一種のコツ」のようなものがあります。それは、仏教での八正道でいうところの「マインドフルネス」と「コンセントレーション」ではないかと考えています。八正道は、漢字では「正思惟」、「正語」、「正業」、「正命」、「正精進」、「正念」、「正定」と表記されていますが、個人的には英語の「Noble Eightfold Path」として、以下のような言い方に親しみを感じています。
フリーライティングの導入からいきなり、仏教の話になって恐縮ですが、仏教の教えは、宗教という以上に(誤解を恐れずに言えば)より良く生きるための指針を示した最古のライフハックの1つとさえ言えるのではないかと、個人的には思っています。それゆえ、よく半分冗談・半分本気で、私は自分のことを「クリスチャン・ミニマリスト兼ブッディスト・ライフハッカー」と呼んだりしています。その辺の詳細や背景を説明するのはまた別の機会として、ここでは「フリーライティングにおける正念と正定の重要性」の話に戻ります。
フリーライティングは、別の言い方をすれば、一種の「ライティング・メディテーション」とさえ言うことができます。つまり、ライティングの最中、真にフリーライティングが求めるレベルに達すると、書き手は、一種のゾーンに入り込み、自分が書いているのか、自分は(何者かに)書かされているのか区別が付かない状態になります。「アイデアを絞り出す段階」から「アイデアが湧き出す段階」に移行し、「上手く書かないと行けないというエゴ」も、その段階では、消滅するか非常に希薄なものになってしまいます。このとき書き手は、八正道でいえば、正念と正定の状態(正しく気づき、正しく集中している状態)に至ります。非常に丁寧(気づき)でありながら同時に「焦らない素早さ」が存在している心理状態でもあります。もし書き手がその状態を自覚できたなら(実際、そうした自覚自体も希薄になるのですが)それは、「フリーライティングが理想としている状態に入った」ということを意味しています。
フリーライティングでよく誤解される点が、「フリーライティングとはスピードライティングのことである」というものです。「一定の時間制限を設けてノンストップで書き続ける」という活動が求められていることから、そのように誤解しがちですが、私の経験からすると、あまり急いで書くのも考えものです。急ぎ過ぎると、それは「焦り」につながり、支離滅裂な文章がどんどん出てくる状態が続き、タイプミス(タイピングの場合)も頻発し、それなりの成果物が見えて来る前に、「ライティングそのものに嫌気が生じてしまう」という危険性があります。
そのようなときは、八正道のマインドフルネスを思い出し、思い切ってスピードを緩めることをお薦めします。一旦、小休止して、まずは「自分の中で浮かび上がった一文」を丁寧に書いてみます。そして、その一文をじっくり反芻しながら浮かび上がった「次の一文」を丁寧に書いてみます。こうした一文はその時点では必ずしも完成文である必要はありません。しかしながら、「一時に一事(One thing at time)」の精神(これはマインドフルネスの真髄なのですが)で、その都度、その一文に精魂を込めるという姿勢は非常に大事です。一本一本の苗を植えていく丁寧さ、石に一文字一文字を刻んでいく真剣さで、一文一文を綴っていくのです。そうして行くうちに、気がついてみると、いつのまにか文章に流れが発生して、そこそこのスピードでライティングが行なわれているという、フリーライティングの状態に至っているはずです。
木の葉の上の光り輝く水滴が地面に落ち、そこに集まった水が流れ始め、小川のせせらぎが生じ、渓流を経て、大河へ合流し、最終的には大海に至ります。文章も同じであり、心を込めて丁寧に綴った最初の一文が、次の一文を生み出し、そうした繰り返しの中で文脈を生み出し、文脈は、お互いに連なることで1つの思想を生み出します。思想という大海を有した書物も、実は、最初の一文という水滴から生じたという考え方です。
なお、先日の記事で「危険な方法」と称して、最初から完成文を書いていく方法を紹介しましたが、実はこの方法も、「執筆におけるマインドフルネスとコンセントレーションを喚起させるアプローチ」ということができるかもしれません。命綱なしで必死に岩肌にしがみつくロッククライマーや、患者の生死を左右する手術に没頭している外科医なども、ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi) のいう「フロー」の心理状態に入るといいます。この「フロー」には、八正道でいうマインドフルネスとコンセントレーションの2つの要素が不可欠なのです。
フリーライティングにかぎらず、あらゆる領域で人が活動する上での「最適」を求めるとき、マインドフルネスとコンセントレーションは、不可欠な要素です。この状態に至って初めて、活動を妨げる不安を発生させるエゴを最小化させることが可能になるのです。人が「フロー」の状態に至ってとき、「心配ばかりしている自分」・「恐れてばかりいる自分」は希薄になり、目の前の1つのことに丁寧かつ素早く(ダラらけることも焦ることもなく)没頭するセルフ(真の自分)だけが存在するのです。その意味では、「フリーライティング」は、むしろ「フローライティング」とも呼ぶべきかもしれません。
- Right View(正しく見ること)
- Right Intention(正しく意図すること)
- Right Speech(正しく話すこと)
- Right Action(正しく行うこと)
- Right Livelihood(正しく生活すること)
- Right Effort(正しく努力すること)
- Right Mindfulness(正しく気づくこと)
- Right Concentration(正しく集中すること)
- 苦諦(一切は苦であるという真理)
- 集諦(苦には原因があるという真理)
- 滅諦(苦は滅するという真理)
- 道諦(苦を滅する道があるという真理)
フリーライティングの導入からいきなり、仏教の話になって恐縮ですが、仏教の教えは、宗教という以上に(誤解を恐れずに言えば)より良く生きるための指針を示した最古のライフハックの1つとさえ言えるのではないかと、個人的には思っています。それゆえ、よく半分冗談・半分本気で、私は自分のことを「クリスチャン・ミニマリスト兼ブッディスト・ライフハッカー」と呼んだりしています。その辺の詳細や背景を説明するのはまた別の機会として、ここでは「フリーライティングにおける正念と正定の重要性」の話に戻ります。
フリーライティングは、別の言い方をすれば、一種の「ライティング・メディテーション」とさえ言うことができます。つまり、ライティングの最中、真にフリーライティングが求めるレベルに達すると、書き手は、一種のゾーンに入り込み、自分が書いているのか、自分は(何者かに)書かされているのか区別が付かない状態になります。「アイデアを絞り出す段階」から「アイデアが湧き出す段階」に移行し、「上手く書かないと行けないというエゴ」も、その段階では、消滅するか非常に希薄なものになってしまいます。このとき書き手は、八正道でいえば、正念と正定の状態(正しく気づき、正しく集中している状態)に至ります。非常に丁寧(気づき)でありながら同時に「焦らない素早さ」が存在している心理状態でもあります。もし書き手がその状態を自覚できたなら(実際、そうした自覚自体も希薄になるのですが)それは、「フリーライティングが理想としている状態に入った」ということを意味しています。
中宮寺 木造菩薩半跏像
フリーライティングでよく誤解される点が、「フリーライティングとはスピードライティングのことである」というものです。「一定の時間制限を設けてノンストップで書き続ける」という活動が求められていることから、そのように誤解しがちですが、私の経験からすると、あまり急いで書くのも考えものです。急ぎ過ぎると、それは「焦り」につながり、支離滅裂な文章がどんどん出てくる状態が続き、タイプミス(タイピングの場合)も頻発し、それなりの成果物が見えて来る前に、「ライティングそのものに嫌気が生じてしまう」という危険性があります。
そのようなときは、八正道のマインドフルネスを思い出し、思い切ってスピードを緩めることをお薦めします。一旦、小休止して、まずは「自分の中で浮かび上がった一文」を丁寧に書いてみます。そして、その一文をじっくり反芻しながら浮かび上がった「次の一文」を丁寧に書いてみます。こうした一文はその時点では必ずしも完成文である必要はありません。しかしながら、「一時に一事(One thing at time)」の精神(これはマインドフルネスの真髄なのですが)で、その都度、その一文に精魂を込めるという姿勢は非常に大事です。一本一本の苗を植えていく丁寧さ、石に一文字一文字を刻んでいく真剣さで、一文一文を綴っていくのです。そうして行くうちに、気がついてみると、いつのまにか文章に流れが発生して、そこそこのスピードでライティングが行なわれているという、フリーライティングの状態に至っているはずです。
木の葉の上の光り輝く水滴が地面に落ち、そこに集まった水が流れ始め、小川のせせらぎが生じ、渓流を経て、大河へ合流し、最終的には大海に至ります。文章も同じであり、心を込めて丁寧に綴った最初の一文が、次の一文を生み出し、そうした繰り返しの中で文脈を生み出し、文脈は、お互いに連なることで1つの思想を生み出します。思想という大海を有した書物も、実は、最初の一文という水滴から生じたという考え方です。
なお、先日の記事で「危険な方法」と称して、最初から完成文を書いていく方法を紹介しましたが、実はこの方法も、「執筆におけるマインドフルネスとコンセントレーションを喚起させるアプローチ」ということができるかもしれません。命綱なしで必死に岩肌にしがみつくロッククライマーや、患者の生死を左右する手術に没頭している外科医なども、ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi) のいう「フロー」の心理状態に入るといいます。この「フロー」には、八正道でいうマインドフルネスとコンセントレーションの2つの要素が不可欠なのです。
フリーライティングにかぎらず、あらゆる領域で人が活動する上での「最適」を求めるとき、マインドフルネスとコンセントレーションは、不可欠な要素です。この状態に至って初めて、活動を妨げる不安を発生させるエゴを最小化させることが可能になるのです。人が「フロー」の状態に至ってとき、「心配ばかりしている自分」・「恐れてばかりいる自分」は希薄になり、目の前の1つのことに丁寧かつ素早く(ダラらけることも焦ることもなく)没頭するセルフ(真の自分)だけが存在するのです。その意味では、「フリーライティング」は、むしろ「フローライティング」とも呼ぶべきかもしれません。
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