フリーライティングと達成感

とにかく始める

フリーライティングの目的で最もよく知られたものは、ライターズ・ブロックの克服です。「何かを書き始める」という行為は、人間の活動の中でも億劫な部類に入るようであり、しかも「上手く書かなければならない」「意味のある内容にしなければならない」などと考えると、その億劫さはエスカレートし、書き始めることを先延ばしにしがちです。そして挙句の果て「締め切り間際となり、お尻に火がついてやっと書き始める」というのが、よくあるパターンではないでしょうか。

そうした困難の克服する方法は、こう言うと身も蓋もないですが、「とにかく始めるということに尽きる」というのが、フリーライティングの存在理由でもあります。

卑近な例で言えば、これは「早朝の起床」とも似ています。「何とか寝床から出て起きる方法」も、敢えていえば「とにかく起きる」ということに尽きます。人は行動を開始することで、気分もその行動に伴ったモードに変わるという性質を持っているからです。「気分が乗ってきたら始める」というアプローチでは、いつまで経っても何も始めることはできません。むしろ逆の「とにかく始めることで初めて気分が乗ってくる」という順序が一般的なのです。「はじめに行動ありき」の哲学が、フリーライティングを支えているのです。

そして何度もフリーライティングを実践していると、この「とにかく始める」や「始めることで気分が乗ってくる」や「はじめに行動ありき」の姿勢が、徐々に内在化してくるのを感じることができるでしょう。この実感が、生活の他の側面でも活かされるようになり、生活全般において行動力が増してくるのも感じられるでしょう。

カール・ヒルティ(Carl Hilty)著の『幸福論』は、よく読まれている岩波文庫の一冊ですが、この中に「仕事の上手な仕方」といういかにもライフハック的な小論があり、以下のように述べられています。
まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである。ところが、ある人たちは、始めるのにいつも何かが足りなくて、ただ準備ばかりして(そのうしろには彼等の怠惰が隠れているのだが)、なかなか仕事にかからない。そしていよいよ必要に迫られると、今度は時間の不足から焦燥感におちいり、精神的だけでなく、とくには肉体的にさえ発熱して、それがまた仕事の妨げになるのである。
ライフハック的とはいいつつ、そこには、このスイス生まれの厳格かつ敬虔なキリスト者であり、法学者・哲学者でもあるカール・ヒルティの深い思想を見て取ることができます。若き日に何度も読んでおいて良かったと思える著書の1つです。



創造と批評

ただし、「とにかく始めればよい」と言っても、そう簡単に行かないのが現実です。この助言だけで、誰しも直ちに「先延ばし」を克服できたら、それこそ、巷にこれほどライフハック的な言説が溢れかえることもないでしょう。

そこで、この「とにかく始める」ための必要な工夫も、よく目にすることができます。その1つが(これもフリーライティングの重要な哲学ですが)「創造」と「批評」という2つの相反する活動の完全分離です。

過去の記事でも述べたことがありますが、そもそも「執筆活動」は、この相反する2つの活動を同時に行うために余計な困難が伴っている活動と見なすことができます。「創造」とは、自分の思う事柄を自由に生み出していく活動です。そこには「無から有を生じさせる一種の喜び」さえ伴います。他方、「批評」とは、よく言えば「生み出したものをさらに良くしようとする吟味活動」と言えますが、悪く言えば「生み出したものの否定」とも言えます。

生み出したものから少し離れた客観的な視点から吟味することは、ある意味では楽しい活動とも言えます。これも「より良くするための改善」であり、一種の「創造」でもあるからです。しかし、「創造」の最中でこの「吟味」を発動させてしまうと、その活動自体は、「自己否定の批評活動」へ変容し、下手をすると、創造活動自体を萎縮させてしまう危険性さえあります。「自己肯定と自己否定を同時に行う」という自己分裂的状況が、通常の「慎重な執筆」では生じてしまうということです。フリーライティングのアプローチは、こうした自己分裂が執筆活動を辛くさせているという仮説に基いています。

この仮説の下、フリーライティングのアプローチでは、この2つの活動を完全に分離させます。例えば、英語のフリーライティングで良く耳にする助言は、「スペルもグラマーもシンタックスも気にせず、まずは制限時間内に一気に書く」というものです。これらをあえて気にしないことで、つまり、執筆者自身の批評活動をオフにすることで、創造活動へ100%集中できるモードへシフトさせるわけです。これにより、執筆モードは一気に自由度を増し、あたかもペンに羽が生えたような状況(実際にはタイピングですが)が発生します。

そしてフリーライティングが一段落したところで、今度は、自身の健全な批評眼をオンにして(自己否定ではなく)より良くするための自己改善の姿勢で、文章の推敲に取り掛かります。この推敲の段階では、「すでに書き終えたものを客観的に捉え直す」という姿勢から、ある種の心地よい達成感の中で楽しく実行することが可能になります。フリーライティングに推敲が不可欠なのは、こうした理由によると言えます。


危険な方法

なお、『Writing with Power』の中でPeter Elbow氏は、「危険な方法(Dangerous Method)」と題して、ほぼ一度の執筆で創造と批評を敢えて同時に行う方法も、ある種のアンビバレンスをもって紹介しています。

例えば、30ページのレポートの締め切りが明日に迫る中で深夜12時になり、まだ何も開始していない場合、あなたは何ができるでしょうか。

この章では、「フリーライティングをして推敲する」という方法と共に、一種の泥縄的方法として「危険な方法」も紹介されています。つまり、一文ごとに「この一度の執筆で完全な文章を書き切る」という悲壮な集中力の下、あたかも碑石を掘るように文を紡ぎながら、「一度の執筆で(最小限の推敲で)一気に30ページを(徹夜で)書き上げる」というアプローチです。

フリーライティングが、「お尻に火がつかない段階で『とにかく書き始める』」というアプローチとすれば、こちらは、「お尻に火がついた緊張感を逆に利用して文章を書く」という、ある種マゾヒスティックなアプローチとも言えます。そして皮肉なことに、現実は、このアプローチの方がむしろ一般的かもしれず、多くの著述家は、この部分にこそ、執筆のスリルや快感を味わっているケースも少なくないようです。

Elbow氏は、この説明の中で、学校の通知表を(修正が困難な)マニュアルタイプライターで書き上げる教師の例をあげています。そして、このスリルをフリークライミングに例え、「次の岩を探す一挙手一投足がまさしく命がけである緊張感」と、「修正できない状況下でタイプしていく緊張感」が似ているとする、教師の証言を紹介しています。

フリーライティングも、あまりフリー過ぎるのは問題かもしれません。「後でいくらでも修正ができる」という感覚は、執筆活動から大事な緊張感を奪ってしまい、「創造活動に必要な心地よい緊張感」さえ奪いかねないのかもしれません。

英語圏で(清書だけでなく執筆に)マニュアルタイプライターを愛用している作家も、こうした緊張感を求めているのではないでしょうか。梅棹忠夫氏がどこかの文章で、マニュアルタイプライターは英語の文体に一定の影響をもたらしたのでないかと述べていたことを覚えています。修正できない状況で生み出される文は、一種独特のドライでクリスピーな雰囲気が備わり、そのような雰囲気の文章により、執筆自体に効率化がもたらされる、といった内容だったと思います。

先日、私は「Hanx Writer」という、タイプライター感覚を再現したiPadアプリで文章を書いたのですが、一字一字を丁寧に打ちたくなるような効果音により、まさしく上述の雰囲気を味わうことができました。もちろん、iPadアプリなので修正は可能なのですが、このアプリで再現された、マニュアルタイプライターを叩く感覚は、あたかも丁寧な執筆を促されるようであり、フリーライティングの最中にあって独特のアンビバレンスを感じることができたように思います。


創造する勇気

ライティングにおいては、いくら準備を完璧にしていても、いざ書き始めると、想定外の展開に向かうのは、いわば普通のことだといえます。この想定外の展開をライティングに伴う創造活動と捉えて、自由度を最大化した中で行おうとするものが、フリーライティングだといえます。

他方、ライティングは、一文一文を介して未踏の領域へ踏み出そうとしている点で、一種の緊張感を伴わざるを得ない冒険的な活動でもあります。その意味では、何度転んでも怪我ひとつしない子供の安全な遊び場というよりも、新雪に足跡を残していく行為であり、石に文字を掘っていく行為であり、命綱のないロッククライミングでもあるという比喩の方が適当だと言えるでしょう。

「あとの推敲でいくらでも変更できる」という言い方はできますが、そもそも推敲とは、何かを書き始め、そして書き終えたという大前提の上に成立する行為であり、すでに発生したライティングや執筆という行為自体を無かったことにする作業ではありません。むろん、書き上げた文章をボツにするという選択肢は存在しますが、その行為にしても、「書き手の主体に対しての書き上げたという実存的行為自体を無かったことにする」という作業ではありません。Rollo May氏の言う「創造する勇気(the Courage to Create)」がそこに存在するゆえ、フリーライティングであっても、否むしろ、フリーライティングだからこそ、そこには、創造に伴う緊張感が伴うものなのかもしれません。そして、そのような緊張感が伴うからこそ、フリーライティング後には、何かを創造したという心地よい達成感も伴うのでしょう。


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