音読について



書くことはアウトプットである。そして読むことや聞くことはインプットである。音読はどうだろうか。音読はインプットとアウトプットと中間に位置する不思議な魅力でわれわれを惹きつける。

テレビや映画の視聴は受け身なインプット活動である。読書も黙読は受け身的である。これらをインプットを超える活動と捉えるには無理がある。

ただし線を引くなり書き込みをするなり本に対して能動的に関わっていくとアウトプット的な要素が加味される。線引きや書き込みが施された本は読書と著者とのやりとりが記載された作品と呼べるかもしれない。


詩篇を朗読する老人

声に出して読む音読は黙読というインプットをアウトプット的な活動へ変える手段と見なせるかもしれない。音読は小学生が学校で行うイメージとは裏腹に高度な活動である。

最も高度な音読は人に聞かせる目的の朗読だろう。もはやアウトプットと言ってよいかもしれない。書籍という譜面による朗読者の演奏活動である。音読は朗読の前段階(準備や練習)と位置づけることができる。

本や新聞記事などを実際に声に出して読むと何が分かるだろうか。

つまらずに滑舌よく明朗に音読できる人はトレーニングをしてない限り少ないのではないだろうか。筆者も日本語の音読は下手と自覚している。母語であるにも関わらずしっかり音読できないことに失望してしまう。

誤解を恐れずに言えば英語の音読の方が楽かもしれない。ネイテイブのような発音ではないものの楽に続けることができる。何が違うのか。

決定的な違いは練習量だろう。皮肉にも日本語は母語であるゆえに黙読しかしていない。英語はしっかりマスターしたい思いがあるため速読・黙読・音読・精読・筆写を並行している。

英語の速読・黙読・音読・精読・筆写は以下のように使い分けている。

資料を読む込む場合や大量のメールを読む場合は否が応でも速読するしかない。趣味や知的関心の楽しむ読者では黙読。たまに音読をする。内容や文章が気に入った厳選書籍はじっくり音読する。

聖書も音読対象の本である。特に欽定訳聖書は音読すべき大事な本だ。精読は翻訳すべき英文を読む際込む際に実行している。聖書研究やその他の文献研究で文献解釈が必要な場合も精読は不可欠だ。

筆写は厳選された本への内在化作業と位置づけられる。聖書に対しても有効である。

このように英語の読書では結果的に膨大な練習量が発生している。現在の読書も英語書籍が多数を占めている。日本語も日々使用していながら意外な盲点が音読だった。母語だからその言語の音読がスラスラできるわけではない。母語でも音読には訓練が必要である。

誤解を恐れずに言えば日本の教育では大人向けの音読が軽視されているのかもしれない。言語の特徴に起因するかもれない。アナウンサーを別として一般的に日本語を音と意識して使用している日本人はそれほど多くないだろう。教育制度の影響なのだろうか。音声を重視する英語(欧米の言語全般)と視覚を重視する日本語との違いだろうか。追究すべき課題といえる。

欧米系の言語は音声を重視し、日本語は視覚を重視しているように感じる。実際いくつかのエピソードを聞いたことがある。

聞く言語と見る言語

第二次世界大戦中ドイツ人と日本人が同じ収容所で捕虜となってそこにそれぞれの言語で記された新聞記事が一枚だけ届いた。日本人とドイツ人の対応は次のように分かれたという。

ドイツ人は全員が一箇所に集まって代表が記事を読み上げた。他のドイツ人は読み上げられた内容を耳で聞くだけで満足したという。日本人は新聞記事のコピーを全員で回し読みした。各人が目で読む必要があった。

「百聞は一見に如かず」ということわざは英語では「Seeing is believing」となる。英語では聞くことが軽視される表現になっていない。日本語では「百回聞いてもそれは一回見たことと変わらない」という表現だ。耳学問という言い方も耳で聞いただけでは不十分という聞くことの軽視が含まれている。

ドイツ人のケースからも伺えるように欧米では情報や意見を音で理解することを重視している。古代ギリシア時代から続く演説の伝統を受け継いているのだろう。意見やアイデアは聴衆の面前で演説して完結するという価値観が深く根付いている。

アカデミズムの世界も同じ差異が存在する。学界では研究者の貢献度は発表された論文数で決まる。しかし学会発表それ自体の価値は欧米では聴衆の前で自分の意見やアイデアを声に出して述べることにある。このため学会の質疑応答にも重要な意味があるのだろう。

日本では発表時の質疑応答は形式的なのものという印象がある。学問分野によるが「詳細は論文をお読みください」と目で読んでからでないと意味のある質疑応答にならないと認識されているように見える。

ビジネスの世界も日本型視覚重視と欧米型聴覚重視の傾向を感じる。その典型がビジネスコミュニケーションの嗜好の差だ。日本人はメールでのコミュニケーションを好む傾向がある。交渉が複雑化してくるとメールが何度も行き来して長いスレッドが往復書簡のように連なっていく。しかし長いスレッドは交渉の経緯が詳細に記録された貴重な資料やログとして重宝される。

欧米はこういった長いスレッドを嫌う傾向があるように感じる。交渉が複雑化してくるとアメリカ人は電話会議を提案する。メールも日本人のメールのように論点を記載した内容は稀だ。携帯のテキストのように数行の伝言がほとんどだ。

書くよりも電話会議で話す方が楽。皆が自由に活発に意見を言えて理解も深まると考えているのがアメリカ人。話すよりも書いた方が楽。電話会議で皆の貴重な時間を奪うこともなく聞き取りづらい音声で迷惑を欠けることもなく何よりも時間をかけて書くことで慎重な議論を深めることができると考えているのが日本人。こうした認識の差異を感じる。

むろん日本人も込み入った話は電話で直接話した方が楽で効率が良いという考え方に賛同する部分はある。しかし電話のやりとりだけではどうも頼りない。口約束だけでは信用できない思いはどうしても払拭できない。書かれたものこそ信用に値するという思想が根底にある。

むろん欧米の契約文化も書かれたものこそ信用に値するという考え方は浸透している。ただし書かれたものはわれわれを拘束するという法の支配の意味合いが強い。それゆえ自由な意見の交換の場としてまだ書かれていない段階でのやりとりや音にしてこそ相手に伝わるという演説文化が重視されている。

書かれたものを読み上げる行為はインプット主体の受動的読書(黙読)をアウトプット的な活動へ変える効果がある。

音読の伝統

読書行為は歴史的に音読が本来であったと言われている。古代ローマ時代のラテン語の碑文は単語ごとに区切る分かち書きが施されいない。中黒「・」を付記するくらいだったという。

文章を文頭から音読することを前提としていたからだという。読み上げながらその瞬間に初めて単語が認識される読み方だ。このため単語を認識させる分かち書きが必要がなかった。文章は一種の楽譜のようなものだった。声に出して読み上げて初めてその内容が読み手と聴衆に理解される位置づけだった。

単語ごとに区切る分かち書きは読みやすさへの工夫とともに黙読の条件として発明されたものだったのかもしれない。

アレキサンドリア図書館の碑文

音読から黙読への移行は興味深い問題としてさまざまに論じられている。よく知られている見解がアウグスティヌスに絡む話だ。アウグスティヌス著の『告白』には当時(4世紀)アウグスティヌスが敬愛する司教アンブロジウスが声に出さずに読む様子を驚いて語るアウグスティヌス自身の感想が記されている。当時アウグスティヌス自身も含めて読書とは音読が一般認識であった。

ユダヤ教でトーラを読む行為はシナゴーグでの音読が基本だ。シナゴーグにおいて金属製ポインタで読む箇所を示して大声で朗唱する姿は書の民の信仰生活にふさわしい。

トーラ(Torah)とポインタ(Yad)

キリスト教もカトリックのミサで旧約聖書・新約聖書の書簡・福音書の決められた箇所の朗唱は重要な意味を持つ。プロテスタントも聖書は朗読されるものだ。

英訳聖書はどの翻訳も音読を重視して取り組まれている。欽定訳は17世紀の英語にも関わらず音としての格調高さから英語聖書の売上で今だに上位にランキングされている。古い英語が今だに愛されている理由は朗読に価値が置かれているからだろう。

日本語訳聖書の総ルビは朗読を前提としているからだろう。日本語訳聖書は文語訳・口語訳・新共同訳・新改訳や多数の個人訳が存在する。最近再び朗読する日本語の観点から議論が活発化している。文語訳聖書が日本聖書協会だけでなく岩波文庫から最近刊行されたのもそうした事情を反映しているのかもしれない。

フィリピンにはフォークカトリシズムという庶民生活に根ざした信仰形態がある。そこでも朗読文化は健在である。

「Pabasa ng Pasyon」というキリストの受難について書かれた文章を早朝午前4時から午後5時まで数人で朗読する信仰形態などその好例といえる。

Pabasa ng Pasyon

黙読は情報を効率よくインプットする点ですぐれた方法である。しかしそれ自体にはアウトプット的な要素は含まれていない。音読は情報のインプットというよりも文字化された内容に再び生命を吹き込むアウトプット活動といえるだろう。

目の前の文字や文章と能動的に関わりながらひとつの場や空間を作り出す演奏に近い活動といえる。読書とは本来そのような活動を指していたのかもしれない。それが黙読へ移行して情報のインプットが強調された。そして読書本来が持っていた音読的要素が軽視されたのかもしれない。

上述のとおり音声としての言語への姿勢は文化ごとに差異がある。ギリシア文化やユダヤ教の影響を受けたキリスト教を経た西洋の方が音声的側面へのこだわりが強いかもしれない。そうした強弱はあるにしも音としての言葉は普遍的である。文字は言葉の音を保存して時空を超えて再び音として再現させる。そして特定の空間や場を作り出す重要な道具立てなのだろう。


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