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Showing posts from 2015

音読について

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書くことはアウトプットである。そして読むことや聞くことはインプットである。音読はどうだろうか。音読はインプットとアウトプットと中間に位置する不思議な魅力でわれわれを惹きつける。 テレビや映画の視聴は受け身なインプット活動である。読書も黙読は受け身的である。これらをインプットを超える活動と捉えるには無理がある。 ただし線を引くなり書き込みをするなり本に対して能動的に関わっていくとアウトプット的な要素が加味される。線引きや書き込みが施された本は読書と著者とのやりとりが記載された作品と呼べるかもしれない。 詩篇を朗読する老人 声に出して読む音読は黙読というインプットをアウトプット的な活動へ変える手段と見なせるかもしれない。音読は小学生が学校で行うイメージとは裏腹に高度な活動である。 最も高度な音読は人に聞かせる目的の朗読だろう。もはやアウトプットと言ってよいかもしれない。書籍という譜面による朗読者の演奏活動である。音読は朗読の前段階(準備や練習)と位置づけることができる。 本や新聞記事などを実際に声に出して読むと何が分かるだろうか。 つまらずに滑舌よく明朗に音読できる人はトレーニングをしてない限り少ないのではないだろうか。筆者も日本語の音読は下手と自覚している。母語であるにも関わらずしっかり音読できないことに失望してしまう。 誤解を恐れずに言えば英語の音読の方が楽かもしれない。ネイテイブのような発音ではないものの楽に続けることができる。何が違うのか。 決定的な違いは練習量だろう。皮肉にも日本語は母語であるゆえに黙読しかしていない。英語はしっかりマスターしたい思いがあるため速読・黙読・音読・精読・筆写を並行している。 英語の速読・黙読・音読・精読・筆写は以下のように使い分けている。 資料を読む込む場合や大量のメールを読む場合は否が応でも速読するしかない。趣味や知的関心の楽しむ読者では黙読。たまに音読をする。内容や文章が気に入った厳選書籍はじっくり音読する。 聖書も音読対象の本である。特に欽定訳聖書は音読すべき大事な本だ。精読は翻訳すべき英文を読む際込む際に実行している。聖書研究やその他の文献研究で文献解釈が必要な場合も精読は不可欠だ。 ...

フリーライティングからフローライティングへ

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フリーライティングを行う上で陥りやすい落とし穴は、ついつい焦って書き続けるため、支離滅裂な文章がどんどん作成されてしまい、嫌気がさしてしまうということです。それを避けるためには、やはり、「フリーライティングをする上での一種のコツ」のようなものがあります。それは、仏教での 八正道 でいうところの「マインドフルネス」と「コンセントレーション」ではないかと考えています。八正道は、漢字では「正思惟」、「正語」、「正業」、「正命」、「正精進」、「正念」、「正定」と表記されていますが、個人的には英語の「 Noble Eightfold Path 」として、以下のような言い方に親しみを感じています。 Right View(正しく見ること) Right Intention(正しく意図すること) Right Speech(正しく話すこと) Right Action(正しく行うこと) Right Livelihood(正しく生活すること) Right Effort(正しく努力すること) Right Mindfulness(正しく気づくこと) Right Concentration(正しく集中すること) ブッダがさまざまな「極端」に向かう試行錯誤の修行の末、菩提樹の木の下で開いた悟りが、以下のような4つの真理―― 四聖諦 ( Four Noble Truths )です。 苦諦(一切は苦であるという真理) 集諦(苦には原因があるという真理) 滅諦(苦は滅するという真理) 道諦(苦を滅する道があるという真理) そして、「苦を滅するための道」として示されたのが、「何事も極端に偏らない」という「中道」であり、「一切の苦は自身のエゴから生じる」という理解のもと、そのエゴを正しく取り扱っていく「道」として、「八正道」が示されたと言われています。 フリーライティングの導入からいきなり、仏教の話になって恐縮ですが、仏教の教えは、宗教という以上に(誤解を恐れずに言えば)より良く生きるための指針を示した最古のライフハックの1つとさえ言えるのではないかと、個人的には思っています。それゆえ、よく半分冗談・半分本気で、私は自分のことを「クリスチャン・ミニマリスト兼ブッディスト・ライフハッカー」と呼んだりしています。その辺の詳細や背景を説明するのはまた別の機会として、ここでは...

フリーライティングと達成感

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とにかく始める フリーライティングの目的で最もよく知られたものは、ライターズ・ブロックの克服です。「何かを書き始める」という行為は、人間の活動の中でも億劫な部類に入るようであり、しかも「上手く書かなければならない」「意味のある内容にしなければならない」などと考えると、その億劫さはエスカレートし、書き始めることを先延ばしにしがちです。そして挙句の果て「締め切り間際となり、お尻に火がついてやっと書き始める」というのが、よくあるパターンではないでしょうか。 そうした困難の克服する方法は、こう言うと身も蓋もないですが、「とにかく始めるということに尽きる」というのが、フリーライティングの存在理由でもあります。 卑近な例で言えば、これは「早朝の起床」とも似ています。「何とか寝床から出て起きる方法」も、敢えていえば「とにかく起きる」ということに尽きます。人は行動を開始することで、気分もその行動に伴ったモードに変わるという性質を持っているからです。「気分が乗ってきたら始める」というアプローチでは、いつまで経っても何も始めることはできません。むしろ逆の「とにかく始めることで初めて気分が乗ってくる」という順序が一般的なのです。「はじめに行動ありき」の哲学が、フリーライティングを支えているのです。 そして何度もフリーライティングを実践していると、この「とにかく始める」や「始めることで気分が乗ってくる」や「はじめに行動ありき」の姿勢が、徐々に内在化してくるのを感じることができるでしょう。この実感が、生活の他の側面でも活かされるようになり、生活全般において行動力が増してくるのも感じられるでしょう。 カール・ヒルティ (Carl Hilty)著の『 幸福論 』は、よく読まれている岩波文庫の一冊ですが、この中に「仕事の上手な仕方」といういかにもライフハック的な小論があり、以下のように述べられています。 まず何よりも肝心なのは、思い切ってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄はずっと容易になっているのである。ところが、ある人たちは、始めるのにいつも何かが足りなくて、ただ準備ばかりして(そのうしろには彼...

フリーライティングについて

フリーライティングの言葉は、英語圏では市民権を得てからかなり時間が経つのではないかと思います。インターネットでFreewritingという言葉を検索しても、直ちに大量の検索結果が表示されます。他方、日本語圏ではどうでしょうか。カタカナで「フリーライティング」で検索しても、2015年4月14日現在の検索結果の多くは、ソフトウェアに類するエントリがほとんどで、ライティングに関するエントリとしては、私が10年以上前に書いた 記事 が今だに上位に表示される有り様です。ウィキペディアにも、「Freewriting」に関する 記事 は存在しますが、日本語版は存在していない状態です。 これは一体どうしたことでしょうか。 「フリーライティング愛好家」の自分としては、この言葉や方法が日本で普及していない現状には少なからず驚いています。むろん、「下書きで一気に書く」というアプローチ自体は、一種のジェネリックな行為として日本人の中でも認識されはいると思いますし、こうした方法の利点も周知されているはずです。しかし、それが1つのコンセプトとしては、例えば「フリーライティング」という方法としては、まだ概念化・意識化・方法論化されていないのでしょうか。 Freewritingという概念自体は、私の知るかぎり( 過去の記事 でも書きましたが)Peter Elbow氏の『 Writing with Power 』や『 Writing without Teacher 』の著書で紹介され、深い考察と共に体系化されています。もっとも、この概念自体を「自動書記」や「意識の流れを捉える」のように、より広い定義で捉えると、 Jack Kerouac 氏など、さらに複数の著述家が含まれてくるようです。 さらに、この方法をビジネス向けに発展させた例としては、Mark Levy氏の『 Accidenal Genius 』があげられます。この著書で紹介されているPrivate Writingという方法は、まさしくPeter Elbow氏のFreewritingに相当するものであり、ここでは、特にMind Mapping等と同列の「発想法や思考整理のテクニック」として考察されているようです。 ちなみにこの本は、『 書きながら考えるとうまくいく! 』というタイトルで邦訳も出ています。...